マルティン・ルター(原詩/原曲)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(作曲)
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(金管・打楽器編曲)
いまから500年前、贖宥状の販売に代表されるローマ・カトリック教会の腐敗に憤激した熱心な神学者ルターは、大司教に「95箇条の論題」を突きつけました。彼がカトリック教会から破門され(註1)、本格的にプロテスタントとしての道を開くのはそれから5年後のことですが、ルターは当時、既に独自の福音観を持っていました。 「すべてのキリスト者はみな等しく聖職者の身分に属」す(万人司祭説)と説く (Christin 1998) ルターは会衆全体が礼拝に参加することを強く望み、聖書の口語ドイツ語翻訳を行いました。また、従前のカトリック教会では、訓練された聖歌隊がラテン語の単旋律聖歌を歌っており、一般の信徒が歌うことはほとんどありませんでしたが、多くのドイツ語の多声部コラール(註2)を作曲し、一般の信徒が積極的に礼拝音楽に参加できるように配慮しました(久保田 2012)。
プロテスタント教会で用いられる会衆のための讃美歌をコラールと呼びます(上原 1968)。旋律を最上段に置き下声部を和音で支えるという簡単な形式の4声体の合唱形式は、後にコラール・カンタータやコラール前奏曲として、バッハに始まるドイツ音楽の重要な下地となりました。バッハはカンタータを200曲弱作曲しましたが、そのうちの11曲がルターのコラールに基づくカンタータです(久保田 2002)。
1530年に出版された讃美歌集は非常に優れたものであると知れ渡り、1794年の時点では10種類もの讃美歌集が知られていました(Wolff 2002)。
資料が散逸しているため、成立経緯がはっきりとわかりませんが、BWV 80a, BWV 80b といった断片が、もともとは他の主日のためのカンタータの原型として存在し、1724年頃に宗教改革記念日に転用されたと考えられています。
ルターのコラールのうち最も有名な「われらの神は堅き砦」(メンデルスゾーンの交響曲第5番第4楽章の原曲でもある)の第1節から第4節まですべてを取り込み、第1節は精緻な対位法、第2節はアルトとバスの二重唱、第3節はユニゾンによるコラール、第4節は原曲通りの合唱で歌われます(樋口 1996)。本来はこれらの他に4曲のアリアやレチタティーヴォが含まれますが、本日はルターのコラールに基づく上記の4曲のみを抜き出して演奏します。
なお、トランペットとティンパニは、J.S.バッハの長男であるW.F.バッハが、ハレで演奏する際に歌詞をラテン語に変更するとともに追加したものです。J.S.バッハの作ではないにもかかわらず、(旧)バッハ全集に掲載されてしまい、多くの混乱と議論を呼びました(註3)が、新全集では削除されました。しかしながら宗教改革祭の祝祭的演奏を行うという趣旨に照らし、本日はあえてトランペットとティンパニを含めて演奏します。
4声によるカノン。勇壮な曲調とは裏腹に、歌詞からは弱気さも読み取られ、サタンとの戦いに苦戦する様子が描かれています。
3本の特殊オーボエ(本日は木管3人で分担)と弦楽器の16分音符の音型が激戦を暗示する一方、4声は舞曲風に変奏されたコラールを、力強く朗々と斉唱します。
ルターのコラールが原型で現れます。“御言葉を蔑ろにする”「彼ら」とは腐敗したカトリック教会のことだ……というのはさすがに穿った見方でしょうか。ともかく、カンタータは〈神の国〉への力強い確信をもって幕を閉じます。
本日の演奏ではルターの理念にもとづき、最後のコラールのみ、聴衆の皆さんにもご一緒にお歌いいただきます。 ルターの理念に従えば母国語である日本語で歌うべきですが、現代日本語でコラールを歌うことは音節数の都合上、きわめて困難です。一方、古語で歌えばいくらかの格調高さが得られ音節も節約できますが、キリスト教用語の訳語には現代人には理解不能な語彙が少なくありません。これらの問題を考慮した結果、意味と音楽性との折衷案として英語で歌います。
それでは最後に、バッハが自筆譜でいつもそうしていたようにこのプログラム冊子も締めくくりましょう
――Soli Deo Gloria(神にのみ栄光がありますように)!
終曲コラールの歌詞(筆者訳):
世の人々は神の御言葉を蔑ろにし、御言葉に感謝をすることもない。
それでも神は私たちのそばにいます、聖霊とともに、そして賜物を持って。
たとえそういった人々が私たちの生命や、富、名誉、家族を奪おうとしても、
奪われるがままに任せればよい、そうしても、彼らは何も奪い取ることはできない。
神の国は間違いなく、永遠に私たちのものであるから。