2017年2月25日 発行 | 2022年1月22日 掲載

ミサ曲ロ短調(抜粋)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

中井 亮(トランペット)

11. 主のみが神聖であるから

「何と並外れた曲であろうか!」こう評したのはバッハを知り尽くした指揮者ヘルムート・リリングです (Rilling 1979)。この曲はバッハの他のあらゆる声楽曲の中にも見当たらぬ特殊な編成で、コルノ・ダ・カッチャと2本のファゴット、通奏低音と声楽バスが高らかに、しかし少し抑圧された雰囲気を覚えさせつつ歌いあげます。

コルノ・ダ・カッチャは「狩りの角笛」という意味で、現代のホルンと異なり、バルブはなく、ベルに手を入れません。2時間以上に及ぶ「ミサ曲 ロ短調」のうち、この曲だけに使われており、他の曲はすべて tacet となっています。  伴奏のファゴット2本はどこか滑稽な印象を与えますが、通奏低音と共に、バスの主題と呼応するごとく時に慌ただしく、時に緩りと低音を支えます。全体として低音域に特化した、バッハには他に類を見ない音響をつくりだします (Wolff 2011)が、同時に一種の明るさをも感じさせるのは、オクターブ跳躍の多用(譜例①)ゆえかもしれません。 バスによってaltissimus(最も高い)という歌詞が歌われるたび、その部分にことさら高い音が配置されていることも、実に言葉を大切にするバッハらしいといえるでしょう(すべての箇所にあてはまるが、一例として譜例②)。

Quoniam tu solus sanctus,
なぜならば、あなただけが神聖であるから、
tu solus Dominus,
あなただけが主であるから、
tu solus altissimus,
あなただけが最も高い[かたである]からです、
Jesu Christe.
救い主イエスよ。

歌詞がいきなり「なぜならば…」と始まっているのを不思議に思われるかもしれませんが、この文は「栄光の讃歌」全体としての長い歌詞の一部分であり、前の文からつながって「われらをあわれみたまえ、なぜならば…」(Miserere nobis quoniam ... )という意味になっていると考えるのが自然です。曲はそのままattacaで次の部分「聖霊とともに」へ続きます。

12. 聖霊とともに

「ミサ曲 ロ短調」全体としてみれば道半ばではありますが、「憐れみの讃歌」と「栄光の讃歌」からなる「ミサ」部はここまでであり、後述するようにバッハはここで24年間、作曲の手を止めています。したがって、この曲をもって一旦ミサ曲は終わったと言ってもよいでしょう。

この曲は間違いなくバッハの声楽作品の中で最大規模の編成ですが、唯一というわけではありません。この規模の作品は他にも多数あります。 この曲がopus ultimum(究極の作品)たる(角倉 1996)のはその規模によってではなく、トランペットをはじめとする楽器群と、そして何より5部に分けられ、複雑なリズムで対位法の真髄が尽くされた合唱のために「これ以上に技巧的な楽曲を探すのは困難」であるという事実によってなのです。 その活気強さは「神の栄光」という歌詞に相応しく、この前の曲(バスのアリア)と、もう1つ前の曲(コーラングレのソロとアルトのアリア)が共に編成の小さい曲であるために、より強く印象づけられます。

曲は①導入②管弦楽のない合唱フーガ③推移④管弦楽付きの合唱フーガ⑤結尾の5部分に分けられます。各部分はつねに低音域から高音域への上行を核として進行し、クライマックスで第1ソプラノから第1ヴァイオリン、木管楽器群へと引き継がれた16分音符の音型が、1番トランペットへ渡されて燦然と輝き、父なる御神の栄光(Gloria Dei Patris)が印象強く讃えられます。

バッハはここまでの自筆スコアの最後に〈Fine S.D.Gl.〉(Soli Deo Gloria: 神にのみ栄光がありますように)と書きついけています。S.D.Gl.はルター派の信仰告白の一つであり、ルター派の熱心な信者であったバッハは宗教曲のスコアの最後にこの語句を書くことを習慣としていました。 しかし、ミサ曲を研究したヴォルフもリリングも共に、ことにこの「聖霊とともに」におけるS.D.Gl.には単なる習慣以上の意味を見いだしています。いわく、それは「神の栄光に対して全声楽ならびに器楽の力と、全歌唱ならびに奏法技術の能力の総括なのである」(Rilling 1979)。

Cum Sancto Spiritu
[あなたは]聖霊とともに
in gloria Dei Patris,
父なる御神の栄光のもとに[います]。
Amen.
まことにそうでありますように。


譜例(クリックで拡大します)

楽曲について

「ミサ曲 ロ短調」は大きく分けて「ミサ」、「ニケイア信条」(通常のカトリックのミサと異なり「クレド」ではない)、「サンクトゥス」、「ホザンナ~ドナ・ノビス・パーチェム」の4部分に分けられます。しかし、この4部分をまとめて「ミサ曲 ロ短調」という一つの作品と見なすべきか否かという問題は、激しい論争を引き起こしてきました(角倉 1996, 樋口 1987)。

その大きな理由は、そもそも一連の楽曲として意図して作曲されたかが不明であることに加え、作曲に20年以上の空白期間があることです。その空白期間の長さは、「ミサ」と「ニケイア信条」それぞれの自筆スコアのあいだに、不慣れな目で見ても筆跡の変化が明らかに認められるほどです(Wolff 2011)。

「就活」のための作曲

これほどの長い空白期間が生じた理由は、当時バッハがおかれていた状況と深く関わっています。バッハはライプツィヒの市参事会から職務怠慢を批判され減俸を命ぜられるなど衝突を繰り返し、ダンツィヒへの転職を試みるも叶いませんでした(樋口 1987)。

それから3年後、バッハはドレスデンのザクセン選帝侯兼ポーランド王にこの「ミサ」(今で言う第1部のみ)のパート譜を献呈しました。しかしそれでは足りなかったとみえ、その後もドレスデン宮廷に媚びるかのように世俗カンタータ9曲を作曲して積極的に演奏しました。その甲斐あってドレスデン宮廷への就職を果たしたバッハは、目的は達せられたとばかりにミサ曲の残りの部分の作曲を長い間中断してしまいました。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、この崇高な「ミサ曲」の作曲は、実のところドレスデン宮廷への就職活動という、きわめて世俗的な動機から出発していたのです(角倉 1996)。さらに言えば、献呈された「ミサ」は、研究によると、冒頭1曲目の「キリエ」以外は、本日演奏する2曲も含めて、すべて他の曲からの転用であると推測されています(転用自体はバッハにおいてそれほど珍しいことではありませんが)。まったく、いつの時代においても就活は大変なものです。

最晩年のバッハは、数十年ぶりに「ミサ」の楽譜に加筆し、残りの3つの部分を補って一つの作品に纏めました(という見方が現在の研究では一般的です)。といっても「ミサ曲 ロ短調」全体を通して新規に作曲されたのは5, 6曲ほどで、残り20曲弱は全部過去の作品の転用とみられています。そもそも2時間を超える「ミサ曲」が実際にミサで演奏されたとは考えられず、それは実演可能性を度外視した作業でありましたが、バッハの死のわずか半年前に果たして「ミサ曲」は完成し、バッハの生涯最後の完成作品となりました。 「ミサ曲 ロ短調」の成立過程にはかように多くの謎と世俗にまみれた経緯があるのですが、もちろん父なる御神の栄光と音楽の偉大さとの前にこれらは些細な問題に過ぎないことを最後に付言しておきましょう。

参考文献