フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
令和の新時代が始まりました。オーケストラの音楽史においても、時代の節目というべき出来事や作品があり、その立役者となった作曲家たちがいました。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンもその一人です。 ハイドンは「交響曲」というジャンルをクラシック音楽史の中に確立しました。それは間違いなく、オーケストラにとって新時代の幕開けでした。
今でこそ、交響曲はクラシック音楽の代表格となっています。しかし、数千年にわたる長い音楽史を振り返ってみれば、交響曲は200年前にやっと登場したばかりの、いわば“新米”なのです。加えて言えば、声楽を伴わない純粋な器楽というもの自体が、19世紀まで音楽史の本流ではありませんでした。長い間、音楽の頂点とは教会における礼拝音楽であって、楽器は声楽の伴奏のための道具にすぎなかったのです。 初めて器楽が音楽史の表舞台に姿を現したのは、17世紀初頭にオペラの序曲が作曲されたときでした。その後、礼拝音楽から独立した音楽作品としての「オルガン前奏曲」の発展や、複数の舞曲からなる「組曲」の成立などを経て、器楽は少しずつ存在感を強め、交響曲の原型が徐々に形作られていきました。[1]
ハイドンは100曲を超える交響曲を作曲し、古典派交響曲の様式を作り上げました。初期には3楽章形式など試行錯誤の跡も見られますが、概ね50番台ごろから、「急・緩・メヌエット・急」からなる4楽章形式を確立しました。この形式は〈第104番〉でも踏襲されるとともに、後に続くモーツァルトやベートーヴェンの範となり、ロマン派以後における交響曲の多様な発展の礎となりました。
ハイドンはその生涯の大部分をエステルハージ侯のもとで音楽監督として過ごしましたが、〈第104番〉が作曲されたのはエステルハージ侯が亡くなった後です。音楽監督の職を失ったハイドンは新たな活躍の場を求めてロンドンへ渡り、〈第93番〉から〈第104番〉までの12曲を作曲しました。そのため、この12曲は「ロンドン交響曲集」と呼ばれています。その最後を飾る〈第104番〉は「ロンドン」の愛称で呼ばれますが、ロンドンを描写しているわけではなく、さほど音楽的に深い意味はありません(もっとも、ハイドンの交響曲の愛称はほとんどそうなのですが)。
〈第104番〉は、ハイドンの、否、古典派の交響曲史の集大成というべき作品です。第1楽章はロンドン交響曲集の例に漏れず、重々しい序奏に軽やかな旋律が続きます。第2楽章は室内楽的な優しい響きに始まりますが、中間部の激しい総奏はハイドンが一時期傾倒していた「疾風怒濤」*を彷彿させます。第3楽章のメヌエットは、ハイドンが確立した交響曲形式の要であり、後にベートーヴェンによってスケルツォに置き換えられるまで、交響曲には欠かせないものでした。第4楽章はフィナーレらしく勢いよく駆け抜けて締めくくられます。
ハイドンは、イギリスで過ごした日々について、後に「人生で最も幸福な日々だった」と述べました [2]。その言葉通りに喜びに満ちた、彼の最後にして最高の交響曲を、どうぞお楽しみください。
*疾風怒濤(ドイツ語: Sturm und Drang)……18世紀後半にドイツで起こった文学運動。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などがその典型とされる。ハイドンの交響曲第24番~第44番の短調作品をはじめとして、同時代の音楽にも影響を与えた [1]。