2024年2月17日 発行 | 2025年1月11日 掲載

旅の音楽――三島特別演奏会によせて

中井 亮(トランペット)

作曲家の生涯を語るうえで、「旅」は避けて通れない重要なテーマの一つです。バッハは職を求めてドイツ各地を転々としましたし、メンデルスゾーンが少年時代に行ったヨーロッパの大旅行は、後に序曲《フィンガルの洞窟》、明るく朗らかな「イタリア」交響曲や晩年の最高傑作「スコットランド」交響曲の創作の源となりました。他にも様々な作曲家の人生を彩った旅や、それらを題材とした名作は数多く知られています。

ワーグナーとブラームスも、例外ではありません。『ワーグナー事典』によれば「ワーグナーの人生は旅に彩られている。その足跡はヨーロッパを縦横にめぐり、北はバルト海、東はモスクワ、南はシチリア、西はロンドンまで、広範囲にわたっている」といいます。ブラームスも様々な都市で作曲家あるいはピアニストとして活躍し、毎年演奏旅行を行っていたほか、春にはイタリアへの旅行、夏には避暑地での創作活動といったように、私的な旅行にも実に熱心でした。

過去への旅、新しい道への旅

今回の演奏会で取り上げる《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、《ハイドンの主題による変奏曲》、そして交響曲第1番も、「旅」の音楽として捉えることができます。ただし、これらの作品は、例えばワーグナーの《さまよえるオランダ人》のように旅を直接描写しているわけではなく、また、ブラームスの交響曲第2番のように旅先の美しい湖畔で作曲されたわけでもありません。

ではなぜ「旅の音楽」と呼べるのか、気取った言い方をすれば、本日の3作品は、19世紀の偉大な作曲家、ワーグナーとブラームスの、古い時代の芸術的理想の追求——言うなれば「過去への旅」を具現化した作品だからです。ワーグナーは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》で、中世のニュルンベルクを舞台に、実在する16世紀のマイスタージンガーの詩を取り込みながら、政治に代わってマイスターたちの芸術が支配する理想郷を描きました。ブラームスは、《ハイドンの主題による変奏曲》で、18世紀の音楽を主題に選び、終曲を17世紀の音楽形式によって締めくくりました。そしてブラームスはまた、ベートーヴェンを崇拝するあまり、交響曲第1番の作曲に着想から20年以上を費やし、同作品が後に「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評されたことはよく知られています。

しかし、彼らは単に昔の芸術を懐古しただけではありません。これらの作品は、同時に、ワーグナーとブラームス、それぞれの、自身の作曲家としての芸術性の追求——いわば、「新しい道への旅」を象徴する作品でもあります。「新しい道 Neue Bahnen」はシューマンが若きブラームスを紹介した論評の題名ですが、ワーグナーもまた、ベートーヴェンの次世代の作曲家として、「楽劇」という音楽形式を提唱し、その実現に生涯をかけました。

ワーグナーは、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を、古代ギリシャの音楽理論に端を発する「全音階法」の語法によって作曲し、前奏曲の冒頭の動機によってその響きを強く印象づけたのみならず、主人公ザックスの台詞を借りて「古い響き、それでいて新しい響き」を称揚しました。ブラームスは、《ハイドンの主題による変奏曲》で、ハイドンの (そしてさらに元をたどるなら、おそらくは、より古い時代の)主題に、自身の管弦楽法によって様々な変容を加え、終曲ではそれまでの変奏をパッサカリアという17世紀音楽の枠組みの上で総括し、古い芸術と新しい芸術の融合を完成させました。そして、その3年後に完成した交響曲第1番で、ベートーヴェンの後継者としての期待に見事に応えたのでした。

交響曲というジャンルを完成させ、最後に《第九》における合唱の導入によって声楽と器楽の壁さえ破壊してしまったベートーヴェン以後の時代にあって、ワーグナーとブラームスは、新時代の音楽を追究することを自らの使命としました。ワーグナーは器楽に見切りをつけ、音楽に言葉を加えることで楽劇という新たなジャンルを交響曲の正嫡に位置づけ、一方でブラームスはベートーヴェンの正統な後継者たるべく交響曲の発展を試みました。両者の進む道は正反対であり、その周囲で激しい対立が巻き起こることもありましたが、古い時代の芸術を注意深く研究し、新しい形式との融合によって芸術性を追求した、という点では共通していました。本日のプログラムは、「旅の音楽」を通じて、二人の偉大な芸術家の軌跡の一端に触れんとするものです。

本日、私たちOrchestra Estにとって初めての演奏旅行で、皆様とともに「旅の音楽」を演奏できることを、大変嬉しく思います。本日の演奏をお楽しみいただき、ワーグナーとブラームスが描いた「旅」、そして彼ら自身の「旅」に思いを馳せていただければ幸いです。

編註:Web掲載にあたり改題しました。原題は「本演奏旅行の曲目について」です。