本リポジトリは、東京のアマチュアオーケストラ Orchestra Est が提供する曲目解説や各種資料のアーカイブです。
次回演奏会:2023年11月23日(木・祝)昼公演 於 大田区民ホール・アプリコ 大ホール。詳細は本ページ下部をご覧ください。チケットのお申し込みはこちらから!

2023年5月28日 発行 | 2023年5月30日 掲載

劇付随音楽《アラジンと魔法のランプ》

ニルセン

中井 亮(トランペット)

《アラジン》 以下、劇付随音楽を《アラジン》、原作の物語および戯曲を『アラジンと魔法のランプ』と表記する。*1は、『千一夜物語』の一話として有名な ただし、アラビア語の原典には存在しない。詳細は《シェヘラザード》の曲目解説を参照。*2『アラジンと魔法のランプ』に基づくデンマークの詩人アダム・エーレンスレーヤー (Adam Oehlenschläger, 1779–1850)の同名の戯曲のために、カール・ニルセン(Carl August Nielsen, 1865–1931)により作曲された劇付随音楽である。本日は7曲を抜粋して演奏する 一般的にはこの7曲の抜粋をもって《アラジン》組曲と呼ぶが、作曲者自身による抜粋ではない。*3

作曲前史:デンマーク黄金時代

18世紀、ホルベア (1684–1754) ホルベアの生誕200周年を記念して作曲されたのが、ノルウェーの作曲家グリークによる弦楽合奏曲《ホルベアの時代から》である。*4を祖として発展したデンマーク文学は、思想家キルケゴール(1813–1855)や童話で有名なアンデルセン(1805–1875)らの登場により黄金時代を迎えた(山室,山野邊 2017)。エーレンスレーヤーは黄金時代の文学者たちに先立つこと約20年、北欧ロマン主義の先駆者として、アンデルセンらに影響を与えていた(山室 2023)。

デンマークの音楽もまた、文学と時を同じくして黄金時代を迎えていた。デンマーク音楽の発展に大きな役割を果たしたのがニルセンの師、作曲家ニルス・ガーゼ (1817–1890)である。ガーゼはメンデルスゾーンのもとで学び、その死後には後継者としてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も務めた。帰国後はデンマーク最初の音楽大学である音楽アカデミーを設立するとともに、コペンハーゲン音楽協会の会長として、グリークやニルセンら後進を育てた(新田 2019)。

カール・ニルセン

ニルセンは1865年6月にデンマークのフューン島の貧しい農家に生まれた。ニルセンの父親、ニルス・ヨアンセンは小作農兼ペンキ職人として働きながら、村の祭や宴会でヴァイオリンやコルネットを演奏しており、評判の良い奏者だった。6歳の頃に父親のオーケストラでヴァイオリンを弾いたのが、ニルセンの最初の音楽体験であった。その後、9歳で初めてのポルカを作曲し、14歳のときにはオーデンセ (フューン島最大の都市で、デンマーク第3の都市)の軍楽隊に金管楽器奏者として入団、同時に初めての専門的な音楽教育を受けはじめた(長島 2015; 菅野 1994)。

19歳のとき、ニルセンは軍楽隊を退団し、首都コペンハーゲンへ移って音楽アカデミーに入学した。卒業後は、王立管弦楽団のヴァイオリン奏者として収入を得つつ作曲家として活動していた。25歳のときには1年間の休暇を取り、師の師であったメンデルスゾーンさながらに各国を旅行しながら音楽鑑賞・作曲を行い、教養を積んだ。管弦楽団では自作の交響曲第2番《四つの気質》 以下、ニルセンの交響曲の副題の日本語訳は新田(2019)によった。*5の初演に奏者として参加し大成功を収め、その後1905年に退団し作曲に専念した。退団後はオペラ《仮面舞踏会》・交響曲第3番《広がりの交響曲》など多くの名作を発表し、1916年の交響曲第4番《消しがたきもの》によりデンマークの国民的作曲家としての評価を確立した。

劇付随音楽《アラジン》の作曲

デンマーク王立歌劇場における戯曲『アラジンと魔法のランプ』の上演は1917年ごろから計画されており、劇付随音楽は1918年から翌年にかけて作曲された。全曲通して80分程度という、ニルセンの音楽では有数の大作であったが、上演の都合で大幅な短縮を余儀なくされたため、初演はニルセンの予想通り失敗。しかしながら《アラジン》はその後も国内外で多くの演奏機会に恵まれ、数曲の抜粋も含めニルセン自身も何度か指揮し、そのたびに好評を博した(Fanning 2000)。

戯曲『アラジンと魔法のランプ』あらすじ

第1幕(魔法のランプの発掘)

イスファハーン ペルシャ(現在のイラン)の都市。16–18世紀の王朝では首都に定められ、その繁栄が「イスファハーンは世界の半分」と形容されたことでよく知られる。*6で仕立屋を営むアラジンの両親は、貧しさとアラジンの怠惰を嘆いていた。その上、アラジンの父が火事で亡くなってしまう (第1場) 以下、主として Fanning (2000)により、バートン(1885=1968)も参照した。なお、各幕の副題は筆者が本稿のために付した便宜上のものである。*7。その頃、邪悪な魔法使いは、魔法のランプを手に入れようと画策していた。ランプが真の力を発揮するためにはイスファハーンにいる人間の力が必要だと知り、魔法使いは計略を練る (第2場)

ある日、イスファハーンの小さな市場で、魔法使いは自らをアラジンの従兄弟と偽り、母を貧困から救うためと理由をつけて、ランプが埋まっている山へアラジンを連れ出す (第4場)。魔法使いはアラジンに魔法の指輪を渡し、指輪の力で安全を確保しつつ洞窟の奥でランプを見つけてくるよう指示する。アラジンはランプを見つけるが魔法使いに渡すことを拒否し、怒った魔法使いはアラジンを洞窟に閉じ込めるが、アラジンは指輪の魔法で無事脱出し、ランプを持ち帰る (第5–6場)

第2幕(イスファハーンの市場、結婚の謀略)

帰宅したアラジンは母親の前でランプの精を呼び出し、立派な食事を用意させる (第7場)。あるとき、イスファハーンの大きな市場へ行ったアラジンは王女の姿を見て一目惚れする。貧しいアラジンが王女に結婚を申し込むなど考えられないと母は忠告するが、ランプの精に出させた宝石を持って国王を訪ね、結婚を認められる (第8場)。しかしその後、高官の息子が、宝石に惑わされるべきでない、婿に相応しいのは自分だ、と国王を説得し、アラジンとの結婚は一旦取りやめとなるも、アラジンは再びランプの魔法で宮殿から婿となった高官の息子を追い出し、無事王女と結婚する (第9–12場)

第3幕(結婚式)

賢者アリババから顛末を知らされた国王は、黒人と白人40人ずつの奴隷を連れてこられれば結婚を許す、とアラジンを試す。アラジンがランプの魔法で連れてきた奴隷とともに豪華な品々を持ってくると、国王は喜び結婚を認める (第13–15場)。アラジンは国王の共同統治者として認められ、王女も喜び、結婚式は歌と踊りにより祝福される (第16–17場)

第4幕(魔法使いの逆襲)

アラジンがランプの魔法で王女と結婚したことを知った魔法使いは怒り、アラジンからランプを奪還 (第1–3場)、ランプの精に命じて王女を宮殿からアフリカへ誘拐する。アラジンは、王女が誘拐された罰として、40日以内に王女を連れ帰らねば死刑と宣告される (第4–6場)。アラジンは母を訪ねるが、すでに亡くなっていたことを知り、悲しむうちに王女を探すための猶予は残り1日となる。アラジンは指輪の精を呼び出し、その魔法によりアフリカにある彼の城へと移動する (第7–8場)

第5幕(アラジンの戴冠)

アラジンはアフリカの城で王女を発見する。二人は策略により魔法使いを毒殺し、魔法のランプを取り戻す (第9–11場)。魔法使いの弟は復讐を企てるも失敗。そのうちに国王が亡くなり、アラジンが後継者に指名される。戴冠式の途中でアラジンは母の墓所にしばし立ち止まるのであった (第12–13場)

各曲解説

括弧内に全曲版での曲順(Krabbe 2002)を示す。下記の通り、抜粋順は戯曲と無関係に組み替えられており、また7曲中4曲が結婚式の踊りの情景から取られていることは特筆に値する。

1 (11). 東洋の祝祭行進曲

アラジンと奴隷たちの王宮への行進 (第3幕第15場)。アラジンにとっては結婚を認めさせるための喜ばしい行進であるが、奴隷たちの足取りは重い。「祝祭」の題からは想像しがたい引きずるような重さの音楽に、両者の相反する感情が現れる。

2 (22). アラジンの夢と朝霧の踊り

アラジンが、直後に王女の失踪を知らされ死刑を宣告されるとはつゆ知らずに森の中で眠っている、流麗な音楽 (第4幕第5場)

3 (16). ヒンドゥーの踊り, 4 (14). 中国の踊り

以下、4曲の「踊り」はすべてアラジンと王女の結婚式 (第3幕第17場)から。木管楽器と弦楽器を中心に緩急のある踊りが2曲続く。

5 (7). イスファハーンの市場

アラジンが王女を見初めた市場 (第2幕第8場)。全管弦楽を4つのグループに分け全く別の音楽を演奏させるという珍しい手法により、市場の喧噪が表現される。どこからか歌声も聞こえてくる。

6 (15). 囚人の踊り, 7 (17). 黒人の踊り

囚人の重々しい踊りに、軽快ながら翳りのある黒人奴隷の踊りが続く。

《アラジン》再考——デンマークの物語

先述したように、本日の抜粋の大部分は結婚式の場面の踊りの音楽であるが、ヒンドゥーや中国といった様々な民族が踊るような描写は、原典にもエーレンスレーヤーの戯曲(Oehlenschläger 1805=1863)にもない、異国情緒を演出するためのニルセンの創作である。実際に、ニルセンは1926年の演奏に際し、〈囚人の踊り〉等を例に挙げながら「この音楽では、おとぎ話における、異質で遠く隔たった世界の音楽を表現しようと意図した」(Fanning 2000, xviii)と述べた。

本作品が異国趣味の産物であると述べるにとどまらず、さらに『アラジンと魔法のランプ』の物語そのものに内在するオリエンタリズム 詳細は《シェヘラザード》の曲目解説を参照。例えば、宝石に目が眩んで素性の知れないアラジンに娘を嫁がせる、一度は翻意するが奴隷を連れてくれば結婚を許す、という国王にあるまじき軽薄さと倫理観の欠如を前提とした物語が受け入れられたのは東洋世界蔑視ゆえ、と指摘することも可能かもしれない。*8を論ずることもできようが、本稿ではこの点には深く立ち入らず、代わりに、劇付随音楽《アラジン》を「デンマークの物語」として捉えることを試みたい。もちろん『アラジンと魔法のランプ』は(千一夜物語とは無関係ながら)アジア発祥の物語である。しかし、《アラジン》の背景と成立過程に目を向ければ、それはデンマークの物語ともいえる。

《アラジン》作曲の前世紀、デンマークの芸術家たちは、ドイツ・ロマン主義の影響を受けながらもデンマークの文化を確立し、黄金時代を築いた。その中心であったガーゼに学んだニルセンが、ついに国民的作曲家となって手がけたのが、やはり国民的な作家であり黄金時代の先駆者であったエーレンスレーヤーの作品だったのである。その作曲技法についても、Roth (2009) は、ニルセンの表現手法は実に周到であり、デンマークにおける物語の語り方の伝統に従って戯曲を「背筋が凍るほど詳細に」要約した、と評価する。こういった背景を踏まえると、王立歌劇場における戯曲『アラジンと魔法のランプ』の上演(およびニルセンによる劇付随音楽の演奏)は、黄金時代を中心としたデンマーク文化の発展史を象徴する事業であった、といえよう。

本作品を「デンマークの物語」として捉えるもう一つの理由は、そこにデンマーク人特有の東洋観、あるいはデンマーク人自身のデンマーク国民としての自己認識(national identity, 国民意識)が表れていることである。Oxfeldt (2005, 27)は、エーレンスレーヤーが物語の舞台を原作での中国からペルシャに移したことに関し、ペルシャの紀行文を読んだためだとする通説に反論するとともに、当時未だ洗練されていなかったコペンハーゲンから見て、ペルシャには「フランス的」な優雅なイメージがあったことを理由に挙げている。

デンマーク人もまた、他の「西洋」諸国と同様に、彼らの国民意識を確立するために「東洋」を利用した。しかし、それはサイードが指摘したような単純な「西洋対東洋」の二項対立ではなく、ドイツの影響力に対して抵抗し、同時にフランス的な理想を追求する、というデンマーク特有の枠組みによってであった。『アラジンと魔法のランプ』の受容史は、このデンマーク的オリエンタリズムを裏付けるものである(Oxfeldt 2005, 53)。

また、《アラジン》自体が、先述した方法で確立されたデンマークの国民意識あるいは文化的特異性の賜物でもあるともいえよう。ガーゼはドイツでメンデルスゾーンに学び、クーラウやブクステフーデといったデンマーク人の先駆者と同様にドイツ音楽の影響を受けつつも、彼らとは異なり、後世へと伝わる北欧音楽の特徴的な性格を決定づけたが(新田 2019)、そうした師ガーゼの存在がなければ、ニルセンがこのような様式で劇付随音楽を作曲することもなかったからである。

《アラジン》はそれまでのデンマーク文化の発展史を象徴する作品である、と先述したが、本作品はまた、その先のニルセンの音楽にも影響を与えた。Fanning (2000)は、《アラジン》の作曲を経てニルセンの作曲形式がより充実し、交響曲第5番にもその影響がみられる、と述べ、Roth (2009)はまた、交響曲第6番《素朴な交響曲》の技法にもエーレンスレーヤーやアンデルセンら黄金時代の作家の語法を見出している。

物語の情景を思い浮かべながらお聴きいただきたい——とは、標題音楽の曲目解説によく見られる凡庸な締め括りの文句であるが、本日の演奏に関しては、物語の主要な部分が抜粋されているとは言いがたく順番も原曲と全く異なる“組曲”に、『アラジンと魔法のランプ』の物語を 感じることは難しいだろう。

ここではその代わりに、「アジアの物語」の向こう側にある、デンマークに生きた偉大な芸術家たちの軌跡——いわば「デンマークの物語」への敬意とともに演奏する、という意思表明をもって本稿を締めくくりたい。読者の皆様におかれても、本稿と本日の演奏をきっかけに、ニルセンの音楽 まずは有名な交響曲第2番、第4番から始めて、その後に第5番、第6番をお聴きいただければ、本稿で述べた《アラジン》の影響による作風の変化を感じることができよう。もちろん第1番、第3番も素晴らしい作品であるので、ぜひ鑑賞をおすすめしたい。鑑賞に際して、新田(2019)は特に良い手引きとなるであろう。*9への興味 本文の内容と直接の関係はないが、ニルセンの少年期の自伝は文学作品としても評価が高く、詳細な解説のついた良い訳書(ニールセン 1927=2015)が入手可能であるので、併せておすすめしたい。*10を深めていただければ幸いである 上述のように、2015年のニルセン生誕150周年などを契機に、近年になって一般向けには良質な解説書が出版された。しかし一方で、日本語におけるニルセン研究は大いに発展の余地を残していると言わざるを得ない。劇付随音楽としては最も主要な作品の一つであるにもかかわらず、日本語で《アラジン》を研究・解説した文献は筆者の知る限り皆無である。本年は当団の他にも本作品を取り上げる東京のアマチュア・オーケストラがあると聞く。アマチュアの演奏や思想活動にどれほどの力があるかはわからないが、このような活動が何らかの契機となってわが国の今後のニルセン研究が発展することを願わずにはいられない。*11

参考文献

脚註

  1.  ↑ 以下、劇付随音楽を《アラジン》、原作の物語および戯曲を『アラジンと魔法のランプ』と表記する。
  2.  ↑ ただし、アラビア語の原典には存在しない。詳細は《シェヘラザード》の曲目解説を参照。
  3.  ↑ 一般的にはこの7曲の抜粋をもって《アラジン》組曲と呼ぶが、作曲者自身による抜粋ではない。
  4.  ↑ ホルベアの生誕200周年を記念して作曲されたのが、ノルウェーの作曲家グリークによる弦楽合奏曲《ホルベアの時代から》である。
  5.  ↑ 以下、ニルセンの交響曲の副題の日本語訳は新田(2019)によった。
  6.  ↑ ペルシャ(現在のイラン)の都市。16–18世紀の王朝では首都に定められ、その繁栄が「イスファハーンは世界の半分」と形容されたことでよく知られる。
  7.  ↑ 以下、主として Fanning (2000)により、バートン(1885=1968)も参照した。なお、各幕の副題は筆者が本稿のために付した便宜上のものである。
  8.  ↑ 詳細は《シェヘラザード》の曲目解説を参照。例えば、宝石に目が眩んで素性の知れないアラジンに娘を嫁がせる、一度は翻意するが奴隷を連れてくれば結婚を許す、という国王にあるまじき軽薄さと倫理観の欠如を前提とした物語が受け入れられたのは東洋世界蔑視ゆえ、と指摘することも可能かもしれない。
  9.  ↑ まずは有名な交響曲第2番、第4番から始めて、その後に第5番、第6番をお聴きいただければ、本稿で述べた《アラジン》の影響による作風の変化を感じることができよう。もちろん第1番、第3番も素晴らしい作品であるので、ぜひ鑑賞をおすすめしたい。鑑賞に際して、新田(2019)は特に良い手引きとなるであろう。
  10.  ↑ 本文の内容と直接の関係はないが、ニルセンの少年期の自伝は文学作品としても評価が高く、詳細な解説のついた良い訳書(ニールセン 1927=2015)が入手可能であるので、併せておすすめしたい。
  11.  ↑ 上述のように、2015年のニルセン生誕150周年などを契機に、近年になって一般向けには良質な解説書が出版された。しかし一方で、日本語におけるニルセン研究は大いに発展の余地を残していると言わざるを得ない。劇付随音楽としては最も主要な作品の一つであるにもかかわらず、日本語で《アラジン》を研究・解説した文献は筆者の知る限り皆無である。本年は当団の他にも本作品を取り上げる東京のアマチュア・オーケストラがあると聞く。アマチュアの演奏や思想活動にどれほどの力があるかはわからないが、このような活動が何らかの契機となってわが国の今後のニルセン研究が発展することを願わずにはいられない。