ニールセン
音楽は、生命そのものである。そして、生命が消しがたきものであるのと同様に、音楽もまた、消しがたきものである。カール・ニールセン 初演時のプログラム・ノート (Røllum-Larsen 2000, xiii–xiv)より。原文:Musik er Liv, som dette uudslukkeligt. 英訳:Music is life, and like it inextinguishable.*1
ニールセンは1865年6月にデンマークのフューン島の貧しい農家に生まれた。ニールセンの父親、ニルス・ヨアンセンは小作農兼ペンキ職人として働きながら、村の祭や宴会でヴァイオリンやコルネットを演奏しており、評判の良い奏者だった。6歳の頃に父親のオーケストラでヴァイオリンを弾いたのが、ニールセンの最初の音楽体験であった。その後、9歳で初めてのポルカを作曲し、14歳のときにはオーデンセ (フューン島最大の都市で、デンマーク第3の都市)の軍楽隊に金管楽器奏者として入団、同時に初めての専門的な音楽教育を受けはじめた(長島 2015; 菅野 1994)。
19歳のとき、ニールセンは軍楽隊を退団し、首都コペンハーゲンへ移って音楽アカデミーに入学した。卒業後は、王立劇場管弦楽団のヴァイオリン奏者として収入を得つつ作曲家として活動していた。25歳のときには1年間の休暇を取り、師の師であったメンデルスゾーンさながらに各国を旅行しながら音楽鑑賞・作曲を行い、教養を積んだ。同楽団では自作の交響曲第2番《四つの気質》 以下、ニールセンの交響曲の副題の日本語訳は新田 (2019)によった。*2の初演に奏者として参加し大成功を収め、その後1905年に退団し作曲に専念、1908年には同楽団の指揮者を務める傍ら、オペラ《仮面舞踏会》・交響曲第3番《広がりの交響曲》など多くの名作を発表した。
1914年の夏、ニールセンは王立劇場管弦楽団指揮者の職を解かれ、作曲のための時間を得た。その少し前に、彼は妻への手紙に次のように書いている。「消しがたきもの」の題名こそ現れないものの、本作品の基本的なコンセプトはこのとき既に決まっていたようである (Røllum-Larsen 2000, xi)。
[……]私は、新しい作品のアイデアを持っています。その作品には、標題はありませんが、私たちが「生命の衝動」または「生命における表現」と理解しているものを表現せんとしています。つまり、動きを持つもの、生命への意志を持つもので、良いも悪いも、高いも低いも、大きいも小さいも関係なく、単に「生命であるもの」または「生命への意志を持つもの」と呼べるものです。[……]これを表現するための、一単語または数語の短いタイトルを考えねばなりません。それだけで十分です。私は自分の望んでいるものを適切に説明することはできませんが、それが良いものだということは言えます。[……]
作曲に際して多少の中断はあったが、翌年には友人への手紙で次のように書いている。この手紙の後にも再び困難に直面した時期があったが、翌1916年1月に作品は完成した。
もうすぐ新しい交響曲が完成します。それは、私のこれまでの3つの交響曲とは大きく異なっていて、ある特定のアイデアに基づいています。音楽の最も根本的な本質は光、生命、そして動きです。それらは、沈黙を切り刻むものです。言い換えれば、私が表現したかったのは、抑えられない生命への意志と衝動を持つすべてのものです。[……]
ニールセンが初演時のプログラム・ノートに記した文章は、ニールセンの音楽観を「あたかもマニフェストのように提示」(長島 2015, 219)したものである。
作曲者は、「消しがたきもの」という題名によって、生命への根源的な意志を暗示しようと試みた。その意志を完全に表現する力を持つのは、音楽だけである。
生命を抽象的に表現する、という課題に直面するとき、音楽以外の芸術というのは、遠回しな方法を採ったり、一部のみを取り上げたり、象徴化されたものだけを扱ったりせざるを得なくなるものである。音楽だけが、その本来的な領域において、その要素でもって自然に、ただ音楽が音楽であるという理由によって、この課題を解決してきた。なぜならば、他の芸術が生命を表現するものにすぎないのに対して、音楽には生命がある 原文ではイタリック体。*3からである。
生命は、挫けさせることのできないものであり、消しがたきものである。闘争、繁殖、衰弱といった営みは、今日も昨日と同じように、明日も今日と同じように行われ、そしてすべては元に戻る。
改めて述べよう。音楽は、生命そのものである。そして、生命が消しがたきものであるのと同様に、音楽もまた、消しがたきものである。これがため、作曲者がこの作品に与えた題名は、大仰に思われるかもしれない。しかし、作曲者は、[生命を抽象的に表現するという]自身の課題における厳格に音楽的な側面を強調するために、この題名を用いた。[この題名は]標題ではなく、音楽がその役割を果たすべき領域に対する道標である。
本作品については、これまで引用してきたように、作曲者自身が多くを語っているが、いささか抽象的な内容に留まっている感がある。具体的な対象と関連付けてその背景を解釈することが、多くの研究者・演奏家により試みられてきた。
まず、古くから本作品の背景と考えられてきたのは、本作品が着手されたのと同じ1914年に勃発した、第一次世界大戦である。小国デンマークは中立政策を採らざるを得なかったため当初は中立を宣言していたものの、ドイツの圧力により海上封鎖を実施。海運に依存していたデンマークは、大きな経済的打撃を受けることとなった(菅野 1994, 118)……とされているが、Baltzersen (2005) によればデンマークは中立を保つことで戦争から大きな利益を得たというし、Sørensen (2014)もまた、物流が悪化し配給制が導入されたのは1917年以後(本作品の完成後)であり、1914年から1917年にかけてはむしろ失業率の低下、実質所得・政府支出の増加など経済成長の時代であったと指摘しているから、本作品がデンマークの極度の混乱を背景に作曲された、という解釈には少し無理があるように思われる。とはいえ、「人はみな時代の子であることから免れない」(長島 2015, 219)し、ニールセンが「もし誰かが作品の内容について尋ねたら、戦争のようなものと言っても良い 原文・出所不明。*4」との言葉を遺していた(新田 2019, 198)ことから、本作品と戦争との関連は自然に受け入れられてきた。
そうした国家的な事情とは別に、近年新たに指摘されているのが、ニールセンの私生活である。この時期のニールセンは、アンヌ・マリーと困難な関係にあった。その理由は新田 (2019)の言葉を借りれば「自業自得」、彼の不貞であった。ニールセンが2歳年上の彫刻家アンヌ・マリーと結婚したのは1891年のことであったが、このとき既にニールセンには学生時代(1888年)にもうけた息子がいた。アンヌ・マリーは彼を養子として引き取ることを提案したが、ニールセンは断っている。また、1905年前後には彫刻家として海外で大きな仕事を受けるようになり家を空けがちになったアンヌ・マリーに対してニールセンが不満を募らせ、夫婦は一度目の危機を迎えていた。1912年にはニールセンは別の女性と間に娘をもうけたが、この娘についてアンヌ・マリーが知ることはついになかったようである。本作品が着手された1914年は、まさにニールセン夫妻の本格的な、二度目の危機な始まった年であり、夫婦は公的に別居することとなる (Carl Nielsen Society, 2024)。このことは、ニールセンの長女が厳しく情報を管理し、不名誉な情報を伝記として出版することを許さなかったため、2008年頃まで広く知られることはなかった 新田 (2019)によれば、1983年に伝記が出版された際に身内がその内容を 「検閲」し、その後25年間内容の変更を許さなかった。しかしこの説には若干の疑問がある。長島 (2015, 209)およびDanske Slægtsforskere (2024)によればニールセンの長女は1973年に既に亡くなっており、また長男と次女もそれぞれ1956年と1983年に亡くなっているため、彼らが「検閲」に関与したとは考えがたいからである。また、ニールセンの3人の嫡出子にはいずれも子供はいない。*5。
題名は慣例的に「不滅」と訳されることが多いが、菅野 (1994)は「『不滅』すなわち『滅びないもの』ではなく、『滅ぼし得ざるもの』でなければ、破滅の直前に置かれていた当時のデンマーク人の立場も、ニールセンの意志も、素直には反映されないであろう」と述べている。また、長島 (2015)は「消すことのできぬもの」と訳している。新田 (2019)は「直訳すると『抑えがたきこと』『消せないもの』」「直訳のニュアンス『消しがたいこと』が導くものは、この作品をより深く理解させてくれると思う」と述べたうえで「消しがたきもの」と訳している。
本作品は実質的には古典的な4楽章構成に近いが、形式上は単一楽章となっており、各楽章間は切れ目なく結合されている。以下では一般的な4楽章形式に則った区分に従って解説する。
ニールセンの交響曲第4番までの4曲は全て、強い一撃(譜例①)で始まる(新田 2019, 195)。すぐに激しさをもった第1主題が提示される。頻出する3連符と8分音符の応酬(譜例②)は、「衝突」 (Simpson 1986, 76)あるいは「対決」(新田 2019)と表現され、本作品全体を支配するテーマと考えられている。「対決」が一旦の落ち着きを見せると、木管に歌曲的な美しい第2主題が現れる(譜例③)。両主題の要素の激しい展開を経て、最後は第2主題が低弦とトランペットを中心に再現され、遠ざかるように消えてゆき、第2部に繋がる。
ブラームスが交響曲のスケルツォの代わりに配置したのと同じような、アレグレットの楽章である。1922年の木管五重奏曲 (Op. 43) のような牧歌的な音楽(譜例④)が、木管楽器を主体として演奏される (Simpson 1986, 76)。クラリネットの弱音が繰り返されて消えると、そのまま第3部に入る。
冒頭、深刻さをもったヴァイオリンの主題に、中低弦とティンパニがさらに緊張感を加える(譜例⑤)。続いて木管楽器が警告的な動機(譜例⑥)を提示する。次第に金管楽器も加わり、緊張感が解決して盛り上がりが最高潮に達するが、再び警告の動機が回想される。続いて弦楽器の速い動きが続き、ティンパニの連打を合図に第4部へ続く(譜例⑦)。
冒頭、アクセントの付いた短いリズム形の繰り返しによる特徴的な動機(譜例⑦)が、この楽章を支配する。交響曲第3番の広がりを思わせる、旋律的な動機(譜例⑧)も現れるが、すぐに短いリズム形の蔭に隠れてしまい、なだれ込むように2組のティンパニ(舞台の両端に配置するよう指示されている)の「対決」が始まる(譜例⑨)。このティンパニには「ここから曲の終わりまで、弱音であっても脅かすような性格を保ち続けること」と註釈がつけられている。後半部では、ブラームスを思わせる金管楽器のコラールを経て、第1楽章第2主題(譜例③)の断片が徐々に現れる。最後はこの主題が完全な形で、管楽器を主体として演奏され、ヴァイオリンの装飾的な音型とトレモロ、ハーモニクス、およびティンパニの力強さを伴った豊かな響きをもって終わる(譜例⑩)。
ニールセンはデンマークを代表する作曲家であり、本日取り上げた交響曲第4番を含む全6曲の交響曲 筆者の“推し”は第3番《広がりの交響曲》である。*6、劇付随音楽、ピアノ・オルガン曲、合唱曲など、幅広いジャンルに素晴らしい作品を遺しているが、その「国際的評価は残念ながら今ひとつ」(長島 2015, 226)であることは、認めざるを得ない 彼の最も有名な交響曲であり、ティンパニを2組要すること以外には特に演奏上の障壁も高くない本作品が、「アマチュア・オーケストラで取り上げられる機会の少ない曲を演奏する」ことを目的とする当団に取り上げられているという事実もまた、その傍証であろう。*7。さらに言えば、筆者は今年5月にコペンハーゲンとオーデンセを訪れたが、残念ながら母国デンマーク、それどころか故郷オーデンセにおいてさえ、ニールセンの人気は今ひとつの印象である。オーデンセには、ニールセン博物館とアンデルセン博物館がともに所在するが、街中の案内板に記されているのはアンデルセン博物館のみで、ニールセン博物館への案内はない。またオーデンセ駅には音楽図書館が併設されているが、ゆかりの作曲家ニールセンを称えるような展示も特になく、他の作曲家と同様に楽譜や資料が所蔵されているにすぎない。コペンハーゲンの「がっかり名所」人魚像には多くの観光客が集まっていたが、1 km足らず先のニールセン像を訪れる者は筆者の他に誰もいなかった。デンマーク国立博物館の展示では、文学者エーレンスレーヤーやアンデルセンへの言及はあるが、ニールセンへの言及は皆無である。国民的音楽家に対して、あまりにも不憫な扱いであるように思われる もっとも、デンマーク文化遺産108点のうちの音楽遺産12点にニールセンの作品が2点選ばれていること(長島 2015)からも分かるように、決して冷遇されているわけでもない。あまり関心を持たれていないといったところであろうか。*8。
わが国での演奏という観点では、高関健氏が、氏いわく日本の指揮者として唯一、交響曲第6番《素朴な交響曲》を精力的に取り上げており、今年4月の藝大フィルハーモニア管弦楽団の演奏会でも演奏しているし、アマチュアに目を向ければ、彼の作品は徐々にレパートリーとしての存在感を増しているようである。こうした演奏を通じて多くの聴衆と演奏者がニールセンの豊かな音楽の世界に触れ、彼の作品がより多くの演奏機会を得ること、そしてわが国におけるニールセン研究が発展することを願わずにはいられない。
編註:「カール・ニールセン誕生から本作品まで」の節は、Orchestra Est 第7回演奏会(2023年5月28日開催)のパンフレットに掲載された劇付随音楽《アラジンと魔法のランプ》の曲目解説をもとに再構成したものである。