イーゴリ・ストラヴィンスキー
《プルチネルラ》は、いわゆる「三大バレエ」に続くストラヴィンスキーの新古典主義時代を代表する作品である。ストラヴィンスキーは18世紀イタリアの音楽を本作品の素材とし、その旋律と通奏低音を流用した一方で、構成・和声および音色においては特色のある編曲を行った。
《プルチネルラ》をストラヴィンスキー作品として真に理解するためには、その着想の背景となったイタリア・オペラの発展史、および音楽的な下地となったペルゴレージらの原作品の知識が不可欠である。しかしながら、これらの知識を踏まえて本作品を論じた曲目解説は、アマチュア・プロフェッショナルを問わずこれまで存在しなかった。
本稿では、ストラヴィンスキーのバレエ作品における本作品の位置づけに触れたうえで、本作品の着想のもととなった16–18世紀イタリアの演劇および音楽について紹介し、原作品群との比較を通じて、ストラヴィンスキーが本作品において発揮した独創性について解説する。
以下の本文は、背景、バレエ《プルチネルラ》の紹介、本作品の原曲の紹介、本作品を構成する各曲の解説、結論の5つの節に分かれている。
バレエ音楽はストラヴィンスキーが最も驚異的な成功を収めた分野である [2, p .142]。ストラヴィンスキーは生涯を通して、ロシア・バレエ団との直接的あるいは間接的な関わりの中で、バレエ作品に携わり続けた。ストラヴィンスキーのバレエ作品には初期のロマン的・絵画的作風から新古典主義を経て音列主義まで至る顕著な作風の変遷 [3] が見られるが、《プルチネルラ》はその重要な転換点の一つである。本節では、《プルチネルラ》の作曲の背景について、ストラヴィンスキーとロシア・バレエ団の関係を中心に述べる。
ストラヴィンスキーは1908年の冬に興行師セルゲイ・ディアギレフ Sergei Diaghilev, 1872–1929*1と出会った ディアギレフとの出会いの経緯およびそれ以前の略歴については、《八重奏曲》の曲目解説を参照されたい。*2。同年の夏に、作曲の師であり精神的なよりどころでもあったリムスキー=コルサコフを喪っていたストラヴィンスキーにとって、ディアギレフとの出会いは作曲家としての運命を決定づけるものであった [2, p. 54]。ストラヴィンスキーは、ディアギレフが亡くなるまで20年間続いた彼との関わりについて、「時折起こった意見や音楽性の避け得ない対立によっても揺らぐことのなかった、相互の愛情によって培われた深い友情」 [4, p. 35] と回想している。また、自身とディアギレフが遠縁であると(真偽不明ながら)一方的に主張していた [2, p. 19] ことからも、ディアギレフへの敬愛の念が感じられる。
ディアギレフは、1909年にロシア・バレエ団 バレエ・リュス(フランス語 Les Ballets Russes)とも呼ばれる。*3を結成した。ロシア・バレエ団は、当時としては珍しく専属の劇場を持たないバレエ団であり、西欧各地、北米、南米などで興業を行っていた [5]。ディアギレフは、ストラヴィンスキーをはじめとする作曲家のみならず、パブロ・ピカソ Pablo Picasso, 1881–1973*4(舞台装置・衣装)、レオニード・マシーン Léonide Massine, 1895–1979*5(振付)ら多彩な分野の芸術家との協働を通じて、総合芸術としてのバレエの地位を大いに高めた [6]。
ストラヴィンスキーのロシア・バレエ団との最初の仕事は、その旗揚げ公演の演目の一つである、ショパンのピアノ曲の編曲によるバレエ音楽《レ・シルフィード》であった フィリッポはこれを「退屈な仕事」と評している [2, p. 55] が、《レ・シルフィード》自体はロシア・バレエ団の作品の中でも数少ない名作とされている [7, p. 57]。*6。翌1910年には、ストラヴィンスキーはロシア・バレエ団のために《火の鳥》を作曲し、初演は成功を収めた。また、《火の鳥》の完成間近に《春の祭典》の着想を、《春の祭典》の作曲途中には《ペトルーシュカ》の着想を得て、1913年までに3曲を完成、初演した 同時期の1911年には、本演奏会の冒頭で演奏する《ラ・ペリ》もディアギレフの委嘱により作曲された。*7。[2, pp. 55–60]
後の2曲の初演は《火の鳥》ほど成功しなかったが、民族主義・原始主義的な作風はその後現代に至るまでに大きな支持を得、「三大バレエ」として彼の代表作と見なされていることは周知の通りである。
1914年に勃発した第一次世界大戦と1917年のロシア革命により、ロシア・バレエ団は大きく翻弄された。ストラヴィンスキーも1914年にはスイスに、1920年にはフランスに移住することとなるが、《プルチネルラ》はこの期間に作曲された。
また、ロシア特有の事情ではないが、2021年にストラヴィンスキーを論じるうえでは、1918–19年に起こったスペイン風邪のパンデミックにも言及しておかねばならない。ストラヴィンスキーもこのパンデミックにより、1918年のバレエ作品《兵士の物語》の演奏旅行が初演の1回のみで打ち切りとなった [4, p. 87] うえ、自身も罹患し休養を余儀なくされる [2, p. 84] などの影響を受けた。
バレエ《プルチネルラ》の着想は初演の6年前に遡る。マシーンは1914年のトスカーナ旅行中に野外劇場を鑑賞し、プルチネルラ 伝統的なイタリア・オペラの登場人物。詳細は後述。*8を主題としたバレエの着想を得た。その後、1917年にはストラヴィンスキー、ピカソ、マシーンの三者により《プルチネルラ》のアイデアに関する会話が行われたと考えられている。[8, p. 3]
ディアギレフは、ペルゴレージ Giovanni Battista Pergolesi, 1710–1736. 詳細は後述。*9をはじめとする忘れ去られてしまった18世紀イタリアの作曲家に興味を持っており、1916年頃からイタリア旅行中に訪れた各地の図書館でその自筆譜を収集していた [9, pp. 52, 73]。1918年に大英博物館で自筆譜のコレクションを完成させた 現在は大英図書館所蔵。当時、大英図書館は大英博物館の一部門だった。*10ディアギレフは、これを《プルチネルラ》の素材として用いることを決め、当初はファリャ Manuel de Falla, 1876–1946. 代表作にディアギレフの委嘱による《三角帽子》など。*11に編曲を依頼したが、断られたため、1919年9月にストラヴィンスキーに正式に委嘱した [8, p. 4]。
ストラヴィンスキーは 「《プルチネルラ》を作曲していた数か月の間、私は喜びに満たされていた」 と回想している [4, p. 92] が、作曲の過程では2つの問題を解決せねばならなかった。
第一の問題は、ペルゴレージへの崇拝ゆえの葛藤であった。ストラヴィンスキーは本作品に着手する際、「ペルゴレージの音楽に対して取るべき態度は愛か、あるいは尊敬か」との問題に直面したという。葛藤の末にストラヴィンスキーは「尊敬だけでは、創造を行うことはできない。創造には強い原動力が必要であり、その原動力は愛によって実現される」と結論づけた。後年には「私が行った一切の冒瀆について、私の良心は潔白である。そればかりか、ペルゴレージに向き合う私の態度は、人が過去の音楽に対して取り得る唯一の創造的な態度であったと考えている」と述べた。[4, p. 91]
第二の問題は、ディアギレフとの意図の相違であった。ディアギレフが 単なる編曲を意図していた一方で、ストラヴィンスキーは編曲ではなく独自の作品を作ろうと考えており、実際に《プルチネルラ》はペルゴレージらの素材を生かしつつも極めて独自色の強い作品となった。編成においても、ディアギレフは「ハープを含む大編成」を想像していたが、ストラヴィンスキーのオーケストレーションはそれよりはるかに小さかった [9, p. 102]。ディアギレフはこれに驚愕し「モナ・リザに口髭をつけろとは君に頼んでいない」と苦言を呈したが [2, p. 85]、ストラヴィンスキーは初演指揮者のエルネスト・アンセルメの助言を得てディアギレフを納得させた [8, p. 3]。
《プルチネルラ》の初演は1920年5月15日にパリで行われた。6月10日にはロンドン初演も行われた。ストラヴィンスキーは初演を「題材、音楽、振付、装飾一式がすべて調和していた」「真の成功」と回想しているが、一方で、ある種の聴衆から「敵意」も感じたと述べている。[4, pp. 94–95] 敵意まで至らずとも、多くの聴衆が「ストラヴィンスキー的な鋭い調子」と荒々しさに驚愕したようであり [2, p. 151]、パリ初演 は 音楽新聞で次のように評された。
ストラヴィンスキーの音楽は、旋律においては全く古典的である。旋律はすべてペルゴレージの音楽から借用されているからである。しかし一方で彼の音楽は、同時に現代的でもある。その結果として、この小さな編成にはロマン派的なクラリネットが欠けているにもかかわらず、18–19世紀のオーケストラが予想だにしなかった響きを創り出している。[10]
こうして、ストラヴィンスキーの新古典主義的作風は《プルチネルラ》によって決定づけられた。新古典主義とは、明確な調性感と形式感を備え、古典派の様式を受け継いだ音楽様式を指す。古くはブラームスの音楽が新古典主義と評されるなど、それ自体は当時においても新しい概念ではなかったが、ストラヴィンスキーによる三大バレエに見られた原始主義から新古典主義への急激な転換は、同じ原始主義の立場をとった作曲家たちへも影響を与えた [11, p. 88]。現在では、「新古典主義」の語は特に《プルチネルラ》の時代のストラヴィンスキーの作風との関連において用いられる [12]。
その後、ロシア・バレエ団の活動は1929年にディアギレフが歿したことで幕を閉じたが、ストラヴィンスキーはロシア・バレエ団で協働した芸術家たちと共に生涯バレエの制作を続けた。
プルチネルラは、コメディア・デッラルテに登場する道化師であり、白い服、黒い仮面、かぎ鼻が特徴的なキャラクターである。
コメディア・デッラルテ (commedia dell'arte) とは、16世紀半ばから18世紀初めに栄えた喜劇の一形式である。その起源は古代ローマに遡り、またその影響はオペラを経て現代のコメディにも及んでいる [14]。コメディア・デッラルテには、物語を超えてそれぞれ共通の特徴・背景を持った人物が複数登場する。この登場人物たちはストック・キャラクターと呼ばれる。いわばお決まりのキャラクターたちがお決まりの物語を演じることで、観客の理解を助けているのであるが、そのうちプルチネルラは特に人気を得て、本作品以外にもさまざまな芸術作品の題材となった。[15]
プルチネルラ、2人の女性(ロゼッタとプルデンツァ)、彼女らの婚約者、プルチネルラの恋人(ピンピネルラ)、4人の小プルチネルラが登場する。
ロゼッタとプルデンツァはプルチネルラに好意を寄せているが、プルチネルラは彼女らに興味を示さない。彼女らの婚約者はプルチネルラを嫉み、プルチネルラの殺害を企てる。プルチネルラが襲われ、倒れると、4人の小プルチネルラが登場して彼を弔う。死を悼む人々の前で、魔術師が現れて死体を蘇らせる。実はプルチネルラは生きており、殺されたふりをしていたのだった。プルチネルラとピンピネルラ、および2組の男女(ロゼッタ、プルデンツァとそれぞれの婚約者)は結ばれ、大団円となる [1, p. 59] ディアギレフの伝記の著者バックルはこの筋書きを「馬鹿げた陰謀」と一蹴し、「数年後だったら、観客は退屈したことであろう」と評している。[9, p. 105] *12。
本節では、本作品の原曲となった作品のうち主要なものとその作曲者を紹介する。
前述のように、本作品はディアギレフが収集したペルゴレージの作品が基となっている。ディアギレフとストラヴィンスキーは、下記の原曲がすべてペルゴレージ の作曲によるものと考えていたが、実際にはペルゴレージ以外の作曲家によるものも含まれていた。これは、原曲が出版された当時は著作権の概念が一般的ではなく、楽譜の販売促進のために有名な作曲家の作品と偽って出版する行為が横行していたためである [16]。
《プルチネルラ》の原曲として最も重要な作品である。第1番の第1楽章が序曲として、また最後の第12曲の最終楽章が終曲として編まれたことからも、《プルチネルラ》の根幹を成す作品と言えよう。前述の通り、1770–71年にペルゴレージの作品として出版されたが、1960年代の研究により作曲者がおそらくドメニコ・ガッロ Domenico Gallo, c. 1730–?*13であろうと特定された。作曲年代は1750年代以降と考えられている。ガッロについては、1730年代にヴェネツィアで生まれたヴァイオリン奏者であったことと、いくつかの作品名が知られているのみで、ほとんど情報が残っていない [16]。
ペルゴレージは、靴職人の祖父、測量技師の父のもとに生まれた。有力者の庇護のもとで音楽を学び、音楽院卒業後すぐに最初のオペラを委嘱された。最初の作品は成功しなかったが、以後、キャリアの大部分においてペルゴレージは当時最も重要なジャンルであったオペラ・セリアの作曲に注力し、オペラの発展に大きく貢献した。[17]
《恋する兄》(Lo frate 'nnammorato) は典型的なコメディア・デッラルテの形式に則ったオペラで、1732年に作曲・初演された。ペルゴレージにとって最初の成功作であり、初演後も20年間にわたって街頭で口ずさまれていたと言われている [17]。
好色な老人マルカニエロと放蕩息子ドン・ピエトロをはじめとする4人の男性と5人の女性が登場し、恋愛に翻弄される男性陣の姿が揶揄われるように描写される。ドン・ピエトロ以下数名の登場人物の名付けや風貌はスペイン王家を連想させるものであり、このオペラは権力者を嘲笑する庶民の風刺劇としての性格も持つ。[14]
《フラミーニオ》(Il Flaminio) は1735年に作曲されたペルゴレージの最後のオペラ。主人公ポリドーロと3組の男女が登場する喜歌劇である。この3組は異なる性格を持ち、それぞれ真面目な恋愛、喜劇的な恋愛、両者の中間のやや滑稽な恋愛を繰り広げる。紆余曲折を経て3組の男女は結ばれるが、主人公が結ばれることはなく、最後に独り身の楽しさを歌って幕となる。[18, p. 41]
本節では、原曲との比較を通じて《プルチネルラ》組曲版 [19] の各曲におけるストラヴィンスキーの特色を解説する 以下、譜例中の注釈は筆者による。*14。
原曲はガッロ《ソナタ第1番》より第1楽章(譜例1-1)。概ねそのままの形で転用されているが、一部のリズムに変更が加えられている。
リズムの変更の一例を譜例に示す。原曲(譜例1-2a)ではシンコペーションの音型がA-A'の2回繰り返されるが、《プルチネルラ》(譜例1-2b)では$A'$が2回繰り返されてA-A'-A'$の計3回となり、さらにBの1拍が削除されている [20, pp. 61–62]。これにより、原曲では4拍子×2小節という単純なリズムであった楽節が $4+2+3$拍子となり、原曲には感じられない躍動感が与えられている。
末尾(譜例1-3a)においても2回繰り返されるCのうち1回が削除されることで終止へ向けた躍動感が生まれるとともに、低音の伴奏はD1がmf, D2がf,D3がpとなり、 弱–強–弱のアクセントがつけられる。楽器編成の面では、木管楽器のみによるD1の次にD2で低弦が加わった後、D3ではコントラバスが抜けてヴィオラとチェロのみとなる(譜例1-3b)。 この楽器法により、D2でのコントラバスの力強さが引き立てられている。
原曲は《フラミーニオ》第1幕より主人公ポリドーロのアリア〈子羊が草を食むあいだ〉。楽節に変更はないが、フルート・ヴィオラ・チェロに指定されたハーモニクス奏法の音色が印象的である。
原曲はガッロ《ソナタ第2番》より第1楽章。展開部の短縮を除いて概ね原曲通り。原曲での強弱の対比が、音色の対比として再現されている。
原曲はガッロ《ソナタ第2番》より第3楽章。3拍子の旋律(譜例3b-1)に独奏ヴァイオリン・ヴィオラが半分の音価によるオブリガートを加える(譜例3b-2)。このオブリガートはストラヴィンスキーの創作であり、独奏楽器間で受け継がれる無窮動の音型が快速な印象を強めている。
原曲はガッロ《ソナタ第8番》より第1楽章。原曲の速度標語はAllegro ma non tanto(適度に快速に)だが、《プルチネルラ》では緩徐楽章として扱われている。最後はファゴットの独奏で急き立てるように曲を閉じる。この部分もストラヴィンスキーの創作である バレエ全曲版と組曲版では次に繋がる曲が異なるため、この最後の部分も異なるが、いずれもファゴットの独奏で終わる。組曲版の方がよりファゴットの活躍が大きい。*15。
原曲はファン=ヴァッセナール Count Unico Wilhelm van Wassenaer, 1692–1766 [8, p. 10] *16《協奏曲第2番》。原曲は終始2拍子であるが、ストラヴィンスキーは冒頭と末尾に3拍子のヘミオラ的音型を加えている。
原曲はモンツァ Carlo Ignazio Monza, ?–1739 [8, p. 10] *17《ハープシコードのための現代的組曲[第1番]》より第1楽章(譜例5)。原曲のスラーや装飾音が取り除かれることで、独奏トランペットの音色がより効果的に用いられる。
原曲はモンツァ《ハープシコードのための現代的組曲[第3番]》よりガヴォット、第1変奏、第4変奏。管楽器のみにより室内楽的な音色が形作られる。
原曲はペルゴレージ《チェロと通奏低音のためのシンフォニア》より終楽章。チェロの旋律(譜例7-1)は《プルチネルラ》では独奏コントラバスに移され、原曲より1オクターブ低く演奏される。合奏チェロ・コントラバスの最低音域によるsempre sffの伴奏も相俟って、低弦の力強い音色が最大限に発揮されている。ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団首席コントラバス奏者のエーデン・ラーツは、この楽章は常にアクセントを持って、「熱湯」のような気質を持って演奏しなければならないと評している [21]。
低弦の強調それ自体が十分に独創的ではあるが、ストラヴィンスキーはさらに管楽器を効果的に加えることで、原曲とは全く異なる曲想を作り上げている。冒頭では旋律がトロンボーンによるグリッサンドで「ジャズ風」に演奏される。中盤ではコントラバス独奏にトランペットとフルートの高音域による装飾音型が重なり(譜例7-2)、「裸の粗野な響き」を感じさせる [20, p. 60]。
原曲は《恋する兄》よりアリア〈可愛らしい瞳よ〉(譜例8a)。原曲は単純な構成のアリアだが、《プルチネルラ》ではソプラノ、テノール、バスそれぞれの独唱による3声の複雑なアンサンブルに改められている。組曲版では声楽パートがそれぞれトランペット、ホルン、トロンボーンに割り当てられており、金管楽器群による穏やかな旋律の美しい音色がこの直前の楽章の鋭い印象と好対照を示している。
原曲はガッロ《ソナタ第12番》より第3楽章。本楽章は原曲の素材を組み合わせながら極めて自由に構成されている。
原曲の冒頭(譜例8b-1)のモチーフは随所で用いられているが、ストラヴィンスキーはこのモチーフを様々に移調しながら多用することで、終曲に相応しい華々しさを演出している。また、原曲のリズム形をとどめない音型(譜例8b-2)が現れるなど、本作品の中でも特に大胆な翻案が行なわれていると言えよう。
この華々しさは、楽器法と深く関わっている。原曲のフレーズにおける最高音(譜例8b-1の矢印で示した音)はヴァイオリンの第1弦の開放弦の音であるため、旋律上は5度上行であるがポジション移動は必要なく、発音自体に難しさはない。一方、最後のフレーズにおけるトランペットの独奏(譜例8b-3)は本作品における翻案の最も顕著な例である。ここではモチーフが短6度高いハ長調で現れる。これはトランペットの事実上の最高音域である。さらにF(ファ)$\rightarrow$ C(ド)の5度上行の効果も加わって、最高音を含めたモチーフ全体が否応なしに鋭さをもって演奏されることとなる トランペットは跳躍が特に難しいとされる [22, p. 38]。*18。
ストラヴィンスキーのライフワークと言うべきバレエ音楽の中でも、《プルチネルラ》は三大バレエにみられる原始主義から新古典主義への転換点として極めて重要な作品である。バレエ《プルチネルラ》の台本は、16–18世紀にイタリアで栄華を極めた演劇コメディア・デッラルテから着想されている。また、ストラヴィンスキーによる音楽は、忘れ去られていた18世紀イタリアの作曲家たちの作品を題材としている。
《プルチネルラ》の音楽は〈序曲〉の冒頭の響きこそ純古典的であるが、開始わずか10小節でリズムが変容されて変拍子が現れることで、我々は《プルチネルラ》が確かにストラヴィンスキーの作品であることを再認識する。続いてストラヴィンスキーは、ある曲では独自の対旋律を加え、またある曲では旋律に手を加えるかわりに特殊奏法を多用するなど、様々な方法で原曲を作りかえていく。
そして、〈序曲〉の最後で木管楽器の弱奏によって直後のコントラバスの強奏が殊更に強調されるとき、また第7曲〈生き生きと〉の独奏コントラバスの2–3オクターブ上でトランペットとフルートが緊張感を加えるとき、さらには〈終曲〉でトランペットを皮切りに各楽器によって上行音型が執拗に繰り返されるとき、ストラヴィンスキーが彼自身の楽器法によって原曲に加えた「鋭さ」が強く印象づけられる。このとき我々は、ロシアに花開いたバレエ芸術の豊かな土台の上で、ストラヴィンスキーが200年におよぶイタリア・オペラの発展史に全く新しい1ページを加えたことを確信するのである。
譜例1-2b, 1-3b, 3b-2, 7-2, 8b-2, 8b-3 はストラヴィンスキー作曲《プルチネルラ》 [19] からの引用です。《プルチネルラ》の著作権は存続していますが、日本国著作権法第32条に基づき適法な引用が可能です(一定の要件を満たす限り、著作物は、著作権者の許可を得たり利用料を支払ったりすることなく合法的に転載することができ、これを引用と呼びます)。その他の譜例はガッロ、ペルゴレージ、モンツァの作品からの転載です。左記の作曲家は歿後70年以上経過しているため、その作品の著作権が消滅しています。したがって、無条件で合法的な転載が可能です。